私の所属する映画サークルの倉庫には、たくさんの学生映画が眠ってる。その形態は様々で、8ミリフィルム、VHS、DVD、Blu-rayと、時代の流れが感じられる。
それらの学生映画のほとんどが、今はもう部室で眠るだけで誰にも観られることはない。もしかしたら、サークル内で上映したきりのものや、一度も上映されることのなかったものも、中にはあるのかもしれない。
学生映画とは基本的にそういうものだ。ほとんどが学生たちの「思い出」として終わっていく。その作品に関わった人たちの心の中だけに、良い記憶や悪い記憶として残っていく。そして作品そのものは、二度と再生されることのないまま、倉庫の隅で眠り続ける。
それが別に悪いことだとは思わない。思い出のために映画を作る人が居たっていい。ただ、私が映画を作るならば、思い出なんかにしたくはないと強く思う。もちろん、作品に関わった人たちや身近な人たちの記憶に残ることは嬉しい。しかしそれよりももっと、思いがけない人の心に残ってみたいと私は願う。
例えばの話。早稲田松竹のすぐそばにファミマがある。そこのバイト店員のシフトがたまたま3月25日の18時半に終わったとする。自動ドアを出て右を向くと、早稲田松竹の前に謎の人だかりが出来ている。800円で3本の映画が観れるらしい。「そういえば、最後に映画を見たのはいつだっけな…」ファミマのバイト店員は、ふと思い立ってチケットの列に並んでみる。そして19時から私たちの映画を観て、何かを思って帰って行く…
これは私の妄想に過ぎないし、早稲田松竹の横のファミマ店員がたまたま私たちの映画を観に来ることなんてまあないだろう。しかし、可能性はゼロではない。「いらっしゃいませ〜、ありがとうございました〜」以上のコミュニケーションを交わすことのなかった人と、もしかしたら映画を通して繋がれるかもしれない。
別にファミマの店員じゃなくても良い。早稲田から馬場歩きしてきた早大生、向かいの喫茶店エスペラントでお茶してたおじいちゃん、仕事帰りに寄ったTSUTAYAで気分の映画が見つからなかったサラリーマン…高田馬場は、思いがけない出会いの可能性に溢れている。早稲田松竹は、そういう場所にある。
きっと当日のお客さんの多くは、監督の知り合いや、作品関係者や、キャストのファンになると思うけど、1人でも2人でも思いがけない人がいたら嬉しい。その見ず知らずの思いがけない誰かの心に、何かが響いたならば、より嬉しい。
映画館で上映するとはそういうことだと思う。映画サークルや、映画祭で上映するだけでは出会えない人々が訪れる。サークルの倉庫で眠る運命を辿る映画とは全く違う景色を、映画に見せてあげることができる。
もし、このブログをたまたま、ふらっと、思いがけず最後まで読んでしまった人がいたら、そのノリで3/24〜27の私たちの上映に来て欲しい。映画を作らなければ出会うことのなかったたくさんの人と、私は映画館で出会いたい。