皆さんこんにちは。
映像制作実習2017年度協賛担当を務めていました鈴木健斗です。
務めていました、と言いましたが、実際は上映会終了後の現在も活動中です(事後処理が大変)。
さて、この度ありがたいことに、私共映像制作実習の作品が早稲田松竹さんで上映いただける運びとなりました。
劇場上映、ですね。
このタイミングで何書こう。
そんなことを考えた時に頭をよぎったのが、先日朝日新聞にドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんが寄稿されていた「「映像」ではなく「映画」を作る」という文章です。
映像と映画の違い?
皆さん何だと思いますか。
想田さん曰く、両者の違いは「映画館で観ることを前提としているかどうか」。
「「映画館の暗闇で、大勢の人々が一つのスクリーンを見つめ続ける」という形態こそが、映画という芸術様式の核心にあるのだと思う(2018年2月14日朝日新聞夕刊より)」とのこと。
そして、そういった「映画館で映画を観るという行為」にしかない魅力として、想田さんは「交感」というキーワードを挙げています。
「交感」とは。
これは、皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。映画館で作品を観ている時、ふとした場面で笑いが起こったり、遠くからすすり泣く声が聞こえてきたりする。そういう瞬間に、「え、こういう場面で笑うの?」と気づかされることもあるし、「そうだよね、ここ感動するよね」と深い共感を覚えることもある。そこには、他者と共に時間や体験を共有できる面白みがある。
もちろん、こういう劇場という場の共有性がマイナスに働くこともあるでしょう。例えば「集中して観たい!」という時に隣の人がスマホをいじり出して、その光が目にチラついてきたり、また「この映画めちゃくちゃ面白い!」と感動している時に、後ろの人が大きないびき声をあげたら興ざめでしょう。
それにご自身意識されているかと思いますが、この「映像」と「映画」の枠組みは想田さんによる主観的なもので、絶対ではありません。例えばお家で個人的に観るNetflixや金曜ロードショーだって、今はTwitter等のSNSで配信や放送された瞬間に感想をリアルタイムに共有し、劇場の「交感」に近い楽しみを得ることができます。むしろそういうメディア経由のコミュニケーションの方が、迷惑がかけられず快適かもしれない。
じゃあ、劇場での「交感」に価値はないのか?
いや、そんなことはないと思います。
高校生の時、友達と一緒にある作品を観に劇場へ行った時のことでした。一番前の席を陣取って観ていたんですけれど、上映が終わって明かりがついた時、ふと後ろを振り返ったら、気づいたんです。「あ、めっちゃ人いる」って。ずっと後ろの席まで沢山の人が埋めていて、皆楽しそうな表情を浮かべていた。その光景が、妙にくっきりとした現実として自分に迫ってきたんですよね。「映画ってこんなに沢山の人たちを集めて幸せにできるんだ、凄いなあ」なんて。その時の実感がめちゃくちゃ強くて、いま自分が映画に入れ込むきっかけになっている。
何が言いたいかっていうと、劇場にはレンタルビデオやネット配信では得られない「リアル」があるということです。
ニュースでどれだけ『君の名は。』が盛り上がっていると報じられても、その実感は実際に映画館へ足を運び、どれだけの人たちが訪れているのか、目で見た時にしか分からないことがある。また上映後に出口へと向かう道すがら、あちこちから聞こえてくる「めちゃくちゃ面白かったね」「あそこちょっと微妙じゃなかった?」なんて声に耳を傾けつつ、自分の心の中でひっそりと(やっぱり、良い映画だったよね!)(そこ、俺もちょっと分かんなかった!)なんて反応するのが楽しいわけですよ(少し変態気味に聞こえますが)。この楽しさはSNSじゃ敵わない。やっぱりで文字だけの平べったい感想群を追っているのより、生身の人間の声が遥かに実感として強いですから。
この「リアル」な「交感」こそ、劇場で映画を観ることの恩恵だと私は考えています。これはどうしてもネット配信やレンタルビデオによる個人的な鑑賞では得られない。少人数のお家鑑賞会でも、何百人と共有する映画体験の感動は得られないでしょう。
話が大分遠回りしましたが、私たち映像制作実習の作品も幸いなことに一般の劇場で公開される機会を得ることができました。皆さんと一緒に今まで述べてきたような「リアル」な「交感」、即ち私たちの作品を通じて一緒に考えたり、感じたり、繋がることが出来るのかなと思うと、楽しみです。
映画って不思議ですね。出会うはずのなかった人たちが集まって、一緒に笑ったり泣いたりできる。映画館は小さな社会です。理想論と揶揄されるかもしれないけれど、私は映画が新しいかたちで人々をつなぎ、これからの社会を豊かにしてくれる力になるんじゃないか、なんてことを思ったりします。