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執筆者の写真早稲田大学 映像制作実習

『湛えて』の早坂です

こんにちは。『湛えて』の早坂です(下写真右端見切れ)。ネットに言葉を持ったことがないので、慄いております。かなり守りに入った文章になってしまうと思いますが、尖った切り口を期待しているみなさま、特に班員、悪しからず。



上映後のトークを聞いてくださった方はおわかりかと思いますが、自分は話すことに難がありまして、加えて司会の佐藤くん(班員)とQ&Aの相性が悪いという泥沼コンディションでしたので、『湛えて』という作品の「ストーリー」のみならず、自分が考えていることさえ伝わっていないのではないかと懸念しています。ここで手短に補強させてください。

昨日、ちょうど、「湛えて」というタイトルに絡んだ感想をいただいたので、それに即してお話しします。

『湛えて』は、企画段階から、みちるという女性のなかに湛えられている過去や感情を、言葉に依らずに映像に湛えることが目論見としてありました。「湛えて」の繰り返しがうるさいですが、とにかく、言葉に依らないという決め事がないと、映像にする意味を見い出せなかったのだと思います。あとは、その拘りに乗ってくれた班員、キャストさん、それぞれのお力があってなんとか映像になったという次第です。素面で言える機会はもうこないかもしれないので、ここで言っておきます。班員、キャストのみなさんあってこそ。感謝感激雨霰。








それくらいですね。






最後に、次年度、映像制作実習を履修する人々に向けて有益なことを書けという、広報からのお達しがあるので、少しだけお付き合い願います。

個人的には、食事に行ける人間が、15倍ほど(昨年比)の計15人になったことが一番の収穫です。被乗数がもっと大きい方は、すごい人数になると思います。

あと、人と何かをするというのは、どんな言葉によっても回収できないほどの苦痛があると知りました。作ることのやりがいがないとは言いませんが、それは結果としてそう思う(そう思わなければこの先やっていけない)だけで、その渦中、頑張っている人は誰もどこか報われないものです。人は、自分が思うように動くわけではありません。恥ずかしながら、自分だけが大変な思いをしている気がしてしまいます。実際、客観的に見ても大変そうな人が出ます。

希望があるとするならば、ご飯に行ける人は着実に増えていくということですね。卓を囲んで食事ができるということが、自分がごく普通の人間なんだと教えてくれます。なんだかんだ言っても人とご飯を食べるのは楽しいことです。人となにかをするのは、途轍もない労力の限りを必要としますが、案外、ご飯によって一瞬だけ誤魔化されたりします。一瞬ですが、大事です。

ご飯への異常な執着は、自分特有かもしれませんが、ほかにも、この授業はあらゆる方法で、突拍子もない才覚を持った孤高の人なんてそうはないと自覚させてくれます。だから、助けてもらうしかないのだとも思います。そして、それによって得られる幸福もあります。稀有ではありますが。




加えて、「普通に」仕事をこなすことがどれだけ立派かということも常々感じます。特に、協賛や広報、上映会を担当して動き回っていた周りの人びとを見ているとそう思います。また、どの仕事にも、作品作り同様の工夫が凝らされていて、担当者の創造性が活きていることも事実です。立場上、製作に媚を売っておきます。上映できなくなっちゃいますからね。




あとひとつだけ、正直、次年度の履修を悩んでいる方はここを読んでくれればいいです。

授業という枠のなかで作るということに、自分は一年間拘り、縛られてもきました。そのことが表現を狭めるということはないと信じて、上映会を迎えたいま、やはり間違っていないと感じます。この授業は人間育成の場であるのかもしれませんが、それだけじゃないとも思います。キレキレの方、次年度、お待ちしております。



やはりネットに自分の言葉をつらつらと述べるのは性に合わないです。誰に向けてカッコつけているのか……。その割には、長々と書いてしまい、羞恥心でいっぱいです。もうこれで最後にしたいです。

また、─いや、失礼します。


早坂苑子

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